人間は自由な存在なのか?ー聖書と法の関係からの考察

本記事は「人間は自由な存在なんだろうか?」といった疑問をお持ちの方に向けた内容となっています。

本記事では西洋の世界観のベースと言ってもよいと思われる、「聖書」を参照して、みなさまの疑問の解決に努めてまいります。

本記事をお読みいただくと、「聖書」を通じて、人間存在が自由であるのかという問いを考えていただくきっかけになるのではないかと考えます。

まず「創世記」における「エデンの園」とエーリッヒ・フロムの解釈から見ていきましょう。

「創世記(エデンの園)」とフロムより

まず聖書を参照すれば、人間存在は自由であると言えます。それについて、「創世記」「出エジプト記」、エーリッヒ・フロムの聖書に関する記述などを参照にしながら見ていきましょう。

聖書における「創世記」の「エデンの園」にいて、人間は神の命令に背き、エデンの園から追放されました。ドイツの思想家のエーリッヒ・フロムは、「人間の最初の行為は反逆である」と『自由であるということー旧約聖書を読む』(p30-31)で述べています。

神は人間の反逆を罰して、自己の優位性を保持しようとしました。神の暴力行為により、アダムとイブはエデンの園から追放されて、命の木から実を取れないようにされたのです。なぜなら人間が神になるための第二の手段を得ないようにするためです。

神は自己の優位性を保持する必要がありました。人間は神の暴力行為に服さないといけませんでしたが、後悔や懺悔はしませんでした。人間はエデンの園から追放されて、独立の生活を始めました。それが人間の歴史の始まりであり、人間の自由の始まりとのことです。

ここまではフロムの解釈ですが、一般的な聖書解釈ではありません。一般的なのは、ローマ帝国時代のカトリック司教のアウグスティヌスの解釈です。それは「人間は自由意志を持って生まれたが、それを乱用して神の命令に背き、この世に悪がはびこるようになった」という解釈です。

次に「出エジプト記」とフロムの解釈を解説します。

「出エジプト記」とフロムより

「出エジプト記」とフロムの解釈の要点としては、「出エジプト記」では人間は神との契約を結び、それに対して、フロムは人間は契約によって、自由になったと述べたということです。

「エデンの園」の後の「創世記」では、人間は堕落し、地上に悪がはびこり、神は人間を造ったことを後悔しました。そのため、神は大洪水を起こし、人間を抹殺しようとしました。

しかしノア(アダムから10代目のユダヤ人の父祖)は正しい人だったので、「ノアの方舟」を作り、その中で人々を生き延びさせます。

そこで神と人の契約が結ばれます。それが十戒です。この宗教的な規範は法律体系を有しており、「憲法」に当たるのが、この十戒です。

再びフロムの解釈を参照すると、契約の観念が現れていて、契約によって人間は完全な自由、もっと言えば、神からさえも自由になったと言います。すなわち神の絶対性は崩れ、神は恣意的な自由を失ったのです。

つまり人間は神自身との契約の原則にのっとり、神に対抗しうる自由を手に入れたということです。

要点としては、「出エジプト記」では人間は神との契約を結び、それに対して、フロムによれば、人間は契約によって、神からさえも自由になったということです。

神との契約と法学とは?

要点としては、契約によって、人間と神は自由な主体同士として、対等に権利能力を持つ、ということです。

契約は自由な主体同士で結ばれます。奴隷とは契約は結べません。神と人間は、人間が自由な存在でありますから、自由意志により、契約解除できることになります。

神からの呼びかけ(calling)に対する自由かつ主体である人間の応答、すなわち応答可能性(respond+ability)が責任(responsibility)なのです。

自由かつ責任の主体であることは、権利主体としての個人として、法学における人間観の基礎として位置づけられています。

最後に、まとめると、人間と神は自由な主体同士として、対等に権利能力を持つので、人間はその点において、自由であると言えます。

まとめ

いかがだったでしょうか?本記事では、「人間は自由な存在なんだろうか?」といった疑問をお持ちの方に向けて、西洋の世界観のベースと言ってもよいと思われる、「聖書」を参照して、みなさまの疑問の解決に努めてまいりました。まとめると以下になります。

  • 「創世記」の「エデンの園」の内容とそのフロムの解釈によれば、人間の自由の始まりは、神への反逆からである
  • 「創世記」の後の「ノアの方舟」、「出エジプト記」とそのフロムの解釈によれば、契約によって、人間は神からさえ自由になったという
  • 契約によって、自由な主体となりえた人間は、神との契約も破棄しうる責任主体となり、それは法学の「権利主体としての個人」を形づくる人間観の基礎となった

さて、みなさんもこの記事をお読みいただいて、もしよろしければ、人間が自由であるのか、自由でないのか、またその理由はそれぞれどうしてなのか考えてみてください。また感想や意見、コメントなどをぜひお寄せください。楽しみにしています。

最後までお読みいただきありがとうございました。

参考文献

松田浩道『リベラルアーツの法学』

エーリッヒ・フロム『自由であるということー旧約聖書を読む』