本記事では「価値のある人間とは何だろう?」、「そもそも人間にとっての価値とは?」という疑問をお持ちの方向けの内容となっています。
本記事をお読みいただくと、「価値のある人間」、「人間にとっての価値」、「人間としてのあるべき姿」がどのようなものか理解が深まります。
本記事では、「相対性理論」で有名な20世紀最高の物理学者と称されるアルバート・アインシュタインの言葉を引用して、考察を深めていきたいと思います。
では説明します。
まず成功者と価値ある人間の関係とはどのようなものでしょうか?
成功者と価値ある人間とは?
「成功者になろうとするのではなく、価値のある人間になるよう努めるべきです」。アインシュタインの言葉です。
成功者と価値のある人間の対比しています。アインシュタインは後者に価値を置くようです。すなわち「価値のある人間」を重視しています。
たしかに成功者というと経済的、社会的成功者が僕の目には浮かびますが、アインシュタインはそれよりも「価値のある人間」を目指すように諭しています。
「本当に価値のあるものは野心や義務感からではなく、人間に対する愛情や献身から生まれます」
「本当に価値のあるもの」とは、人間に対する愛情や献身から生まれるとアインシュタインは説きます。
反対に読むと、野心や義務感からは本当に価値のあるものは生まれないということです。先ほどの、社会的、経済的成功とつながりますね。つまり社会的・経済的成功は、多くは野心から生まれます。それによって、成功したとしても、本当に価値あるものは得られないとアインシュタインは言っています。だから愛情や献身といった動機から行動することが重要なのです。
では「人間に対する愛情や献身」はなぜ重要で、そのことを知ってどう行動すればよいか?
「人間に対する愛情や献身」の重要性とどう行動すべきか?
これにもアインシュタインの解答は明快です。
「人の真の価値は、受け取るとることではなく、与えることにあります」。
つまり先述の「愛情や献身」を与えるところに、人間としての真の価値があるということですね。
さらに「わたしたちは、人々に奉仕するために最善を尽くさなければなりません。 それこそが人間としての尊い責務です」「人々のために生きることだけが、価値のある生き方です」とも言っています。
つまり人類への奉仕、そしてそのためだけに生きることだけが、価値のある生き方だとアインシュタインは言っています。
僕はこれだけは少々極論で、人間以外の自然をも包括した方がよいのではないかと考えました。なぜなら人間と自然は共存すべきだからです。ただ人間関係だけに焦点を絞れば、アインシュタインが言っていることも一理あるのかもしれませんが。いずれにせよ「愛情や献身」は大切ですね。
ではどうやったら「愛情や献身」を他者に与えられるようになれるでしょうか?
「愛情や献身」を他者に与えるための方法とは?
「他人の喜びを楽しみ、他人とともに苦しむことが、人間にとっていちばんすばらしい生き方です」
これがアインシュタインの回答です。シンプルですね。これには僕も強く共感します。
個人的に僕が関連があると思ったのは、仏教の「慈悲」(「慈」は深い慈しみの心をさし、「悲」は深い憐(あわれ)みの心をさします)です。
「利他性」がキーワードになりそうです。利他とは、他者のメリットとなることという意味です。メリットとは、利益です。つまり利他とは、他者の利益となることです。
20世紀の天才物理学者と仏教という宗教の真理。僕には共通性が見出せました。これは僕にとって強い昇華(洗練されること)だったのですが、さらにアインシュタインはこうも言っています。
「あらゆる宗教、芸術、科学は、同じ木の異なる枝です。 いずれも、人間を単なる肉体的存在から引き上げ、その生き方を高貴なものにし、個人を自由へと導くことを目的にしています」という言葉を残しています。
宗教も芸術や科学も別々で交わらないのではなく、大元は同じでそこから派生してきたということですね。そしてその本質は、人間の生き方を高貴にし、自由にするということですね。
僕は経済的・社会的な成功者よりも精神的に幸福で、他者への利他性を持った「価値ある」人になりたいです。そのためには他者に慈悲を持って向かい合うことが大切だと考えました。
まとめ
本記事では、「価値のある人間」とはどのようなものか、アインシュタインの言葉を参照して考察を進めました。まとめると以下になります。
- 成功者よりも価値のある人間になろう
- 価値のある人間とは、与える人である
- 愛情や献身を与え、他者の喜びや悲しみに共感しよう
以上のことを説明いたしました。この記事をお読みいただいて、みなさまの今後の考えるきっかけとなれば幸いです。
最後までお読みいただきありがとうございました。
参考文献
『アインシュタインの言葉 エッセンシャル版』弓場隆
価値観は人それぞれですね。感覚もです。ただ言えるのは一般常識や社会通念は守るべきだと思います。最低限、人に迷惑をかけない、ありがとう、ごめんなさいは、言えたほうがよいと考えています。
イカマサ様
コメントありがとうございます!
まず「価値観は人それぞれ」というのは、たしかにそうですね。価値観は違って当たり前です。しかし違っているからこそ、その差異を尊重し合えるとよいですね。
また「一般常識や社会通念」というのは、もちろん守るべきことが推奨されのですが、ただ絶対的な基準・指針がない以上、それぞれの努力義務のようなものにしかなり得ないと僕は考えています。
あるいは「人に迷惑をかけない」とのことですが、日本ではたしかにこの通りです。しかしインドでは「他人に迷惑をかけてよい。ただし他人の迷惑も受け入れよ」という言葉があるのを耳にしました。このように国や文化、地域によって、価値観が異なるのですから、それを受け入れる「寛容さ」が必要なのでしょう。
今を楽しみ、ポジティブに考え。
他人に迷惑をかけないようにしたいですね。
今幸せだあ。と思えたらいいですね。
ミイちゃん様
コメントありがとうございます!
たしかに今を楽しみたいですね。人生は限りがありますから。ただポジティブすぎるのにもデメリットがあります。すなわち改善すべきことを覆い隠してしまうことです。
つまりリスクをリスクとして捉えず、リスクを回避できずに大きな取り返しのつかない失敗をしてしまうということです。
また「他人に迷惑をかけない」ということですが、正直言って難しいことです。なぜなら赤子の頃からどれだけの他者の迷惑となったか、を考えると分かると思います。そして人間は自立しても他者に迷惑をかけるものです。だからこそ、自分が施された分、その人へ恩を返し、さらには社会に対して自分のできることを還元していくべきだと僕は考えます。
最後に「今幸せ」というのは、それ自体が最高善です。僕もその状態になるために、日々を楽しみたいです!
記事とコメントを拝読させて頂きました。
NaoToさんは他人に迷惑を掛けてしまう事はやむを得ないし当然である、そこには周りの寛容さが重要であるという価値観でいらっしゃる様ですが、私は成人であれば、自立し、如何なる言動に対しても自身の責任として捉えるというのは当たり前の価値観だと考えています。
その上で自分自身に補えないモノを他者と相互補完し合い、共生していくのが真っ当な大人である、と考えます。
このブログの内容を理解出来る読者層を前提に考えた上で赤子を引き合いに出すのは無意味なのでは?と思いました。
NaoToさんのコメントから伺えるNaoToさんの背景に、他責を求め、自身の価値観が絶対と言わんばかりの返答に少し未熟とも思える人間性が垣間見えてしまった様な気がして、少し残念に思いました。
折角、沢山勉強をされて良い記事を書かれているにも関わらず、机上の空論的な、本の中の世界だけで完結している様な返信内容では、他者との共存は難しいのでは?と思ってしまいました。
個人的に面白いブログ記事だと感じていますので、知識をひけらかすだけのものにならず、知識を自身の糧とされる事を今後楽しみに期待しています。
ま様
コメントありがとうございます!
「成人であれば、自立し、如何なる言動に対しても自身の責任として捉えるというのは当たり前の価値観」
「その上で自分自身に補えないモノを他者と相互補完し合い、共生していくのが真っ当な大人である」
たしかにそうですね。ただ人が生きているうちに他者に迷惑をかけるのは必然ですし、それに対する責任がないわけではありません。迷惑をかけたならば然るべき措置を取る必要性はあると同様に考えております。
また「自分の言動には責任を持て」とよく言われますね。しかし「如何なる」というのは難しいですね。これは責任放棄ではなく、「如何なる」ときも完全には責任は取れませんよね。人間は必ず間違いを犯すし、自分が気づいていなくても迷惑だってかけてしまう。だから他者の間違いも許そうという精神なのです。それがインドの例ですね。
「他責を求め、自身の価値観が絶対」「机上の空論的な、本の中の世界だけで完結している」「他者との共存は難しい」
たしかに僕は未熟かもしれませんが、「他責を求め、自身の価値観が絶対」だとは考えておりません。自分はまだ成長の余白があると考えおります。ただ読者目線で話すなどの工夫によって改善できますので、そのように努力して参ります。
応援よろしくお願いします!