本記事ではポストモダン(近代以後)における「個人と公共の関係ってどんなものだろう?」「個人の自由と公の秩序のバランスはどういう風に調整していくべき?」という疑問をお持ちの方に向けての内容となります。
本記事は、長尾達也氏の『小論文を学ぶー知の構築のために』を参照しています。この本は、大学受験の小論文対策の本なのですが、現代文や英語の背景知識を得るためにも使えるすぐれた本です。また社会人の方がお読みになっても、新しい発見が多くあると僕は考えます。
本記事をお読みいただくと、「個人と公共性」についての知識や理解が深まるともに、一市民として果たすべきことを見つけられるかもしれません。
ではまずはリベラリズム(自由主義)の立場からはどうでしょうか?
リベラリズムからの視点とは?
要点としては、リベラリズムの方法論的個人主義に基づいた説明をします。後述します。
まず背景としては1970年代から政治学の分野では、リベラリズム(自由主義)とコミュニタリアニズム(共同体主義)の論争がありました。その論争とは、「個人」と「公共性」の調和についてです。
なぜこのような論争が起こっているのかというと、自己決定権の論理を過剰に認め過ぎてしまうと、皆が自分勝手に振る舞い始め、社会全体が不幸になってしまうことが分かり始めたからです。
ちなみに自己決定権とは、「自分のことは自分で決められる」という考え方です。対する言葉として、権力者が強権を持って、指導されるべき者を指導するという「パターナリズム」があります。
先程のリベラリズムのもっとも有名な人は、アメリカの哲学者ジョン・ロールズ(著書『正義論』)で、ロールズは17世紀にみられたホッブズやロックの社会契約論に立脚し、あくまで方法論的個人主義に基づこうとする考え方を持っています。
方法論的個人主義とは、社会の分析の単位を主として「個人」に求めるアプローチで,個人の心理・行為,個人間の相互行為などから社会が成立していると考える思想です。
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
要するに、個人の要素から社会を考えていく方法です。それに対するのは、方法論的集合主義で、「社会的事実」や「集合表象」を扱う方法(同箇所から引用)です。方法論的個人主義は、マックス・ウェーバーが、方法論的集合主義はデュルケームが代表的です。
まとめると、方法論的個人主義とは、社会を分析するのに、個人をその単位として見る方法でした。
次にコミュニタリアニズム(共同体主義)の立場からはどうでしょうか?
コミュニタリアニズムからの視点とは?
要点としては、コミュニタリアニズムとは、公共性を重視する立場です。
コミュニタリアニズムを主張する人たちは、
「個人は個別の共同体に属することで、つまり特定の共同体のなかで生まれ育ち、その共同体に特有の価値を身につけることによってはじめて主体になると主張し」ました
(出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
つまり、コミュニタリアニズムとは、共同体の価値を身につけ個人が主体となるという思想です。
一定数の人たちは、コミュニタリアニズムの方がリベラリズムより正しい主張だと聞こえるかもしれませんが、リベラリズムからの反論としては、コミュニタリアニズムの主張は、個人の抑制につながり、全体主義的な傾向をもたらしかねないという点を懸念しています。
ただ公共性を声高に叫んで、権威や権力の復活を期待しても、それは時代錯誤的な古い近代主義的なやり方にすぎないと言えるでしょう。
まとめると、コミュニタリアニズムとは、共同体の価値を身につけることで、はじめて個人は主体性を獲得するということです。
そこで両方の思想を取り込み、問題を解決しうる方法とはどのような考え方があるでしょう?第3の道として、ボランティア型社会を見てみましょう。
ボランティア型社会とは?
要点としては、ボランティア社会とは、「自己回復する共同体」ということです。後述します。
まず時代的潮流としては、管理の時代から自己統治の時代へ進んでいきました。すなわち大きな政府から小さな政府になったということです。
人権や公共の福祉が近代的な固定的な観念になってきています。すなわち善き社会の具体的な内容が定まらないということです。したがって、市民は自らの利益求め、自ら行動決定をせねばなりません。
「善い」とは、リベラリズムの立場から言えば、価値中立性で「他者を害さないかぎり個人の自由は尊重されなければならない」ということですね。哲学者J.S.ミルの言葉に由来します。また多元社会のルールでは、〈それぞれの人にそれぞれの自由を〉という考えが大原則です。
先述しましたが、ボランティア型社会の到来とは、自己回復する共同体のことです。ボランティアとは、自発的であるということです。
まず「ボランティア」とは、人びとが共通として同じく持っている主観的なこと(共同主観)として、皆が共通な善だと認めている方向の行為をすることです。単なる思いやりや奉仕活動とは違います。
したがって、ボランティアをすることは、「善き社会」を構築することにつながります。「善き社会」は、意識的に「自由」でありつつも、社会的な行為の意味では「善き社会」を作ることを目的としています。
では、どんな過程で到来するのでしょうか?まず大きな時代的潮流として、社会として全般的に、リベラリズムの思想だけでは問題の解決に立ち行かなくなりました。なのでコミュニタリアニズムの思想も貪欲に摂取せざるを得なくなっているという現状があります。
また自己回復する共同体とは、どのような意味でしょうか?まず「自己回復」するとは、自分で自分を治すという意味で、それを共同体が自らが行う、つまり共同体の成員たちの共同の目的として、共同体の回復が目指されるという意味です。
シンプルに言えば、共同体成員が共同体の問題を解決していくということです。それはまるで
「…,生命体が生命を目的とするように”われわれ”の社会全体が目的を見出して個人を動員し始めていると言っていいだろう。それはいわば社会的な生命体の誕生であるのかも知れない」
前掲p170
と同書の著者、長尾氏は指摘しています。
まとめ
いかがだったでしょうか?本記事では「個人と公共の関係ってどんなものだろう?」とか「個人の自由と公の秩序のバランスはどういう風に調整していくべき?」という疑問をお持ちの方に向けて、長尾達也氏の『小論文を学ぶー知の構築のために』を参照し、みなさまの疑問に応える尽力をさせていただきました。まとめると以下になります。
リベラリズムでは、方法論的個人主義として、社会の単位は個人とされる/コミュニタリアニズムでは、個人の発生は共同体の価値を取り入れはじめて生まれるものとする/ボランティア型社会とは、自己回復する社会で、共同体成員が共同体自身の目的に自発的に取り組むということ
今回は「個と公共」の問題について取り上げました。自己責任や迷惑行為などとの関連性を考えてみるのもよいでしょう。あなたはどう考えますか?よろしかったら、コメントで教えてください。
最後までお読みいただきありがとうございました。
参考文献
長尾達也『小論文を学ぶー知の構築のために』
自分の好きなことをやりながら、他人や社会に迷惑をかけずに過ごしたいですね。
イカマサ様
コメントありがとうございます!
他者との協調と、他者への寛容が大事になりそうです!
賃金を貰わずに、社会貢献、他者貢献ができると、見返りを求めず自然な気持ちで、温かい心を養うことができるような気がします。
与えることの素晴らしさ、これはきっとボランティアでしか味わえない特権なのかな。
助け合い、支え合える社会になっていくといいな、と思います。
K.S様
コメントありがとうございます!
「見返りを求め」ない。「与えることの素晴らしさ」。利他性大事ですよね!
まちぐるみ大掃除をできる日は参加出来るように、心がけようと思います。
みーちゃん様
コメントありがとうございます!
はい。行動が大事ですね!