現代社会に生きる私たちは、しばしば「何を目指しているのか分からなくて不安」という漠然とした感覚に囚われることがあります。未来に対する不確実性、キャリアパスの多様化、価値観の混迷など、その要因は多岐にわたります。まるで、濃い霧に覆われた広大な海原を、羅針盤を持たずに漂流しているかのような心細さ。それは、まさしく私自身が今感じている感情であり、その根源を探ることから、今回の深い内省の旅は始まりました。この一篇の文章は、その心の葛藤と、そこから見出した希望の光の軌跡を綴ったものです。
羅針盤なき航海への嫌悪と、目標への渇望
最初に私の思考の扉を叩いたのは、「目標が曖昧なのが嫌だ」という、ある種、本能的な強い感情でした。どこに向かっているのか分からない状態は、私にとって精神的な不快感を伴います。人生という旅において、目的地が定まらないまま進むことは、どこへ行っても落ち着かず、常に「これでいいのか」という問いがつきまといます。この「どこを目指しているのか分からないのが不安」という感覚は、次第に「そもそも、何かを目指す必要があるのか?」という、より根源的な問いへと発展しました。もしかしたら、目標などなくとも、ただ流されるままに生きることも、一つの生き方として許されるのかもしれない。しかし、心の奥底では、その考えに納得できない自分が確かに存在していました。
「何かを目指したい」という根底の意識が、私の中には確かに存在している――この気づきは、漠然とした不安の霧をわずかに晴らす光となりました。では、「何かを目指す」とは一体どういうことなのか?具体的なイメージを求めて思考を巡らせたとき、それは「今の自分ではない、高みに行くこと」という言葉にたどり着きました。現状維持ではなく、より良い自分、より成長した自分になりたいという、自己実現への純粋な欲求がそこには隠されていました。
「高み」への疑問と、手の届く場所への視点転換
しかし、「それは今できること?」という問いがすぐに頭をよぎります。「高み」という言葉が示すものは、あまりにも漠然としていて、具体的な行動に落とし込むことができません。雲を掴むような話では、いくら「そうしたい」と強く願っても、現実との間に乖離が生じ、再び不安の淵に逆戻りしてしまいます。遠すぎる目標は、時に私たちを無力感に陥らせる毒にもなり得ます。
そこで私は、視点を大きく変えることを決意しました。「高み」という遠い目標ではなく、今、この瞬間にできることは何だろうか?この問いこそが、私の思考を大きく前進させる転換点となりました。未来の漠然とした目標に囚われるのではなく、足元を見つめ、今、この手で触れることのできる範囲に意識を集中させる。このパラダイムシフトが、不安から解放されるための第一歩であると直感しました。
「今できること」の積み重ねが拓く未来
「今できることをやって、興味持てること、続けられることなどの延長に適性や仕事があるのかもしれない」。この考えは、私にとって非常に大きな希望となりました。壮大な目標を最初から設定するのではなく、日々の小さな行動の積み重ねが、やがて自分の適性や、もしかしたら天職と呼べるようなものに繋がる可能性を示唆しているからです。あたかも、目の前の石ころを一つずつ拾い集めていくうちに、やがてそれらが道となり、遥か彼方まで伸びていくようなイメージです。道は最初から存在するものではなく、自らの足跡によって作られていく。そのシンプルな真理に気づかされた瞬間でした。
では、具体的に「それを今できるようにするためには?」どうすれば良いのか。思考はさらに具体的な行動へとシフトしていきます。デイケアに通う、専門家や友人・知人に相談する、日々の生活を楽しむ、自己分析を深める、記録を取る、様々な体験をする、そして、今できることをできる範囲でやる。これらは全て、未来の自分へと繋がるための布石であり、自己探求のプロセスそのものです。一つ一つの行動は小さくとも、それらが有機的に繋がり、やがては大きな流れとなって、私を未知なる未来へと誘ってくれるはずです。
足元の小さな一歩と、思考の収束
そして、この一連の思考を経て、最終的に行き着いたのは、究極の問い「それはそうと、今できることは?」でした。どんなに壮大な目標や理想を描いても、結局は「今、この瞬間に何をするか」という一点に集約されます。それは、ハミガキのような日々のルーティンであり、CP作成(おそらくは、自分の思考や計画を整理するためのドキュメント作成)のような具体的な作業であり、短時間でも集中して行う30分程度の勉強(1:5という比率からは、おそらくインプットとアウトプットのバランスを意識しているのでしょう)のような、ごく身近な行動です。
これらのごく小さな、しかし確実に実行可能な行動こそが、漠然とした不安を打ち払い、未来への道を拓くための確かな一歩なのだと確信しました。大きな目標に押しつぶされそうになるのではなく、手の届く範囲の小さな「できること」に意識を集中させる。このシンプルながらも力強い戦略が、私の心に静かな安らぎをもたらしてくれました。
「今を生きる」という究極の目標
ここまでの思考プロセスを経て、私の「目標」は明確に、そしてシンプルになりました。それは「今を生きる」こと。そして、そのために「自分にコントロールできることをやること」、つまり「今できること」をやること、に尽きます。未来への不安は、多くの場合、コントロールできないものへの執着から生まれます。しかし、私たちが本当にコントロールできるのは、「今、この瞬間の自分の行動」だけです。このシンプルな事実に立ち返ることで、漠然とした不安は薄れ、目の前のやるべきことに集中できるようになったのです。
具体的な「今できること」として挙げられたのは、英語、歴史、社会科学といった学習分野です。これらは、現時点での私の興味や関心が高い領域であり、探求することで知的好奇心を満たし、新たな発見があるかもしれません。学びは、私たち自身の世界を広げ、新たな可能性を開く鍵となります。
目標設定のあり方と、楽観的な試行錯誤
これらの学習をどう進めていくか。ここでも再び「目標を設定した方ができるのかなあ?」という問いが頭をよぎります。大きな枠組み、プラニング(プランニングではなく、より広範で戦略的な意味合いを持つ「プラニング」という言葉を選んでいる点が興味深い)は必要なのではないか。しかし、これまでの思考プロセスを踏まえると、あまりにも厳密な計画は、かえって行動を阻害する可能性も秘めています。完璧な計画を立てようとするあまり、一歩も踏み出せなくなる「分析麻痺」の状態に陥る危険性があるからです。
そこで生まれたのが、「楽観的に適当にやろうかな?(興味が続く必要最小限で)」という考えです。これは、完璧主義を手放し、気楽な姿勢で物事に取り組むことの重要性を示唆しています。無理に目標を設定して自分を縛るのではなく、自然な興味の流れに身を任せ、楽しむことを最優先する。必要最小限の努力で、興味が続く限り続けてみる。この柔軟な姿勢こそが、継続的な学習と自己成長の鍵となるでしょう。人生は実験であり、試行錯誤の連続です。
結び:足元から広がる世界
「何を目指しているのか分からなくて不安」という出発点から、私は「今を生きる」こと、そして「今できることをやる」という、極めてシンプルでありながら力強い目標へとたどり着きました。未来の「高み」を追い求めるのではなく、足元に目を向け、目の前の小さな一歩を大切にする。歯磨きのような日常のささやかな行為から、英語や歴史といった知的な探求まで、今、この瞬間にできることを、無理なく、しかし着実に実行していく。
このプロセスを通じて、私は漠然とした不安から解放され、むしろ「今」という瞬間の尊さを実感しています。羅針盤を持たずとも、足元を照らす光があれば、進むべき道はおのずと見えてくるはずです。そして、その道の先に何が待っているのか、それは誰にも分かりません。しかし、その未知の未来への期待こそが、今を生きる私たちの原動力となるのではないでしょうか。霧の中を進む不安は消え去りませんが、足元を照らす光が、私を確かな未来へと導いてくれることを信じています。