本記事では「法って何のためにあるの?」という疑問をお持ちの方に向けての内容となります。
本記事は松平浩道氏の『リベラルアーツの法学』を参照して、本の内容をご紹介してみなさまの疑問の解決に努めます。
本記事をお読みいただくと、「法って何のためにあるの?」という状態から「法の存在意義にはこのようなものがあるのだな」という状態へと理解が深まると考えます。
まずは新約聖書を頼りに「マタイ福音書」と法の関係を読み解いていきましょう。
「マタイ福音書」と法より
「マタイ福音書」においてのイエスの安息日の解釈について、解説します。結論から言えば、イエスは法の趣旨から「人を大切に」という結論を出し、安息日でも人を助けることを人々に許しました。
詳しく説明します。まず「マタイによる福音書」における「手の萎えた人を癒す」という場面があります。「手の萎えた」とは、手に重傷を負ったという意味です。そしてこの場面で、人々は安息日に人を癒すやのは許されているのかとイエスに尋ねました。
なお安息日とは、神が6日かけて天地創造して、7日目は休んだとの創世記寝は記述に由来します。すなわち、人間は労働をせず、休む日です。
神の前では、たった一人の限界のある人間にすぎず、社会的格差のリセットという意味合いがあり、大事にされている慣習です。
ちなみに「ユダヤ人が安息日を守ったのではなく、安息日がユダヤ人を守ったのである」という言葉(小原克博『ビジネス教養として知っておきたい 世界を読み解く「宗教」入門』p143)があるほどです。
イエスは、羊を例に挙げて「羊が穴に落ちたら、安息日でも助ける。人間だったらもちろんのことだ」というようなことを述べました。すなわち安息日に人を助けるのを肯定しました。
これはある意味、法解釈の問題と言えます。上記の解釈の仕方を法学では、「もちろん解釈」と言います。
勿論(もちろん)解釈 「馬が通行止めなら象はもちろん通行止めだ」とか、反対に「馬が通れるのなら犬はもちろん通れる」など、小さいものの禁止から大きなものの禁止を、あるいは大きなものの許容から小さなものの許容を導き出す解釈をいう。
電子版日本大百科全書(ニッポニカ)の解説より
なぜイエスがこのような解釈をしたかというと、イエスが安息日の趣旨を考えたからだと言われます。すなわち安息日の趣旨とは、人間が働きすぎて、健康を害することをやめさせることです。
もっと突き詰めれば、人間の自由と尊厳を守ることです。平易に言い換えると、「人を大切に」という趣旨になります。このようにして、上記の解釈が導かれるのです。
このようにイエスは人を大事にするため、安息日に人を助けてもよいと説きました。
次に「マルコ福音書」と法の関係性を見ていきましょう。
「マルコ福音書」と法より
結論から言うと以下になります。イエスが安息日に触れたことから、形式的な律法主義の批判をしている、そして法の趣旨に遡り、イエスが人間を大切にしていることが伺えます。
詳しく以下で説明します。まずイエスが安息日に言及した言葉として以下の言葉があります。「安息日は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない」(マルコによる福音書「安息日に麦の穂を積む」より)です。
これは律法主義に対する批判ともとれる言葉です。すなわち形式的な法の適用が、かえって人間に害しているといった意味合いです。
法学の考え方も「法は人のためにあるのであって、人が法のためにあるのではない」(p8)とも言い換えらるので、イエスの言葉と重なるところがあります。
このようにして、安息日からイエスが人間を大切するという点が、趣旨から読み解くべき法学の考えと類似しているということが分かりました。
最後にパウロの言葉と法の関係性を見ていきましょう。
パウロの言葉と法より
要点としては、パウロは精神性を重視し、法にもその洞察が活かせるということです。
まずパウロが述べた言葉として、「神は私たちに新しい契約に使える資格を与えてくださいました。文字ではなく霊に仕える資格です。文字は殺し、霊は生かします」(「コリントの使徒への手紙 「新しい契約に仕える者」」)があります。
霊とは、英語では「スピリット」日本語で別に言い換えると、「精神」といった意味になります。
法学において、法の精神とは、法の趣旨(この法は何のためにあるのか?)に遡って解釈することで、それが重要であると言われています。
その理由としては、法の趣旨に遡って解釈することで、その法が実現したい価値を結実させるためです。
なおイエスやパウロの言葉は、愛情に基づく同胞批判であり、自己批判である。反ユダヤ主義、ユダヤ人差別ではありません。
このようにして、パウロも精神性が重要で、それを法学と絡めて紐解くと、法学も法の精神、すなわち法の趣旨が同様に重要で、法の趣旨に遡って解釈することが大切だと言っていると言えます。
まとめ
いかがだったでしょうか?本記事では「法って何のためにあるの?」という疑問をお持ちの方に向けて、松平浩道氏の『リベラルアーツの法学』を参照して、本の内容をご紹介してみなさまの疑問の解決に努めてきました。要点としては、以下になります。
- イエスは安息日を趣旨に遡って解釈した
- イエスは形式的な律法主義を批判した
- パウロは精神性を重視し、それは法解釈における趣旨を大切にする態度に類似性がある
みなさまも物事の趣旨に遡って解釈してみると、その物事の本質的な部分に関する気づきが得られるかもしれません。
ぜひ趣旨に遡る解釈をさまざまな場面でしてみてください。そして最近あった気づきがあれば感想とともにコメントしてください。ぜひよろしくお願いします。
最後までお読みいただきありがとうございました。
参照文献
松田浩道『リベラルアーツの法学』
聖書協会共同訳『聖書』
法は、人の幸福を守り、増進させるために必要なことかな。社会生活を送るには最低限のルールだと思います。
イカマサ様
コメントありがとうございます!
たしかに僕も法は人間の幸福を守り、より増進させるという意見に同感です。
なぜなら、法の存在意義そのものが人間の幸福追求及びその向上だと考えるからです。
また「社会生活を送るには最低のルール」とのことですが、これについても僕も同じ考えを持っています。
少し厳密に言えば、「法には社会を規律する機能もある」ということになります。それには、社会統制機能、活動促進機能、紛争解決機能などがあります。ぜひ気になったら、ネットなどでお調べください!
法は人間の自由と尊厳を守ることです。人を大切にということかな。
みーちゃん様
コメントありがとうございます!
おっしゃり通りです。法は「人間の自由と尊厳を守る」、そしてその趣旨としては「人を大切にする」ということがあります。
ただ注意しておかねばならないのは、地球に存在しているのは人間だけではないことです。
つまり、動植物や自然も含まれるということです。したがって、人間が果たすべき役割として、それらとの共存を含めた壮大なプランを立てて実行することが求められます。
共同に地球に連帯する者として、何をしなくてはならないのか、何ができるのか、それらについて思いをいくばくかともに馳せていただきたいと考えております。